悼むこと

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昼間の暑さは残るものの、朝晩はすっかり秋めいてきました。
奇数月を担当する梅津は、一応「長月」ということもあり、9月に本の記事を書くことが多いかもしれません。私の読む分野はかなり偏っており、小説はほとんど読みません。特に最近のベストセラー作家もまったく読まず、小説は、夏目漱石、太宰治、川端康成など、昭和の有名所に目を通すくらいでしょうか。ただ例外として、村上春樹だけは少し読みます。

とりわけ印象的なのは、『1Q84』という作品です。物語全体がそれほど好きなわけではないのですが、そのなかに出てくる探偵の仕事をしている「牛河」という人物がとても印象的です。作中ではその人物は主人公の仲間の殺し屋に殺されてしまいますが、その殺し屋が牛河の依頼主に対して、「ところでそちらでは、牛河さんの死は深く悼(いた)まれることになるのだろうか?」と質問します。そしてそれに対して依頼主は、「誰であれ、人の死はここでは常に深く悼まれます」と答えます。牛河はある意味、作中では特殊な人物として描かれ、不気味な目立ち方をしていますが、その非業の死も「悼まれる」ということに何だか安心感を覚えました。

「死」について取り扱った本をもう一つ。こちらは非常に短く、文章にして400字ないのではないでしょうか。詩人のヘンリー・スコット・ホランドの詩を訳した『さよならのあとで』という本です。夏葉社という小さな出版社から出ています。ここでも「死」はさりげなく悼まれます。決して重々しく、悲しそうなものとしてではなく、とても身近に感じられるものとして。とにかく薄い本ですので、10分以内に読み終わることをお約束します。インターネットでも詩自体は読めますが、ぜひ購入し、手にとって読んでほしいです。1ページに1,2行ずつの詩と装画がとても心地のよい本で、少しずつ読むとより味わい深く感じられます。

私もそれなりに歳をとりまして、大切な人たちとお別れすることもありました。今もそれらの人々を悼むことはありますが、『さよならのあとで』のように、仰々しいものではなく、実際に会っていたときにように、何かの拍子にふと悼みます。まだ大きな喪失体験に直面していないだけかもしれませんが、自分の死に置き換えてみてもあまり大層に悼んでほしくはないなあ、とも思います。

安倍元首相の国葬が話題になっていますが、本来、人を悼むときに、そんなに仰々しい儀式は要らないように思います。それを必要としているのは、自分たちの権威や、存在の大きさを誰かに見せたい人たちだけではないでしょうか。形はなくとも悼むことはできます。もちろんこれは国の制度として行う必要性を感じて動いた多くの人がいて、しかもすでに世界の要人にも招待状を送り、決して戻ることのできない方針であることは承知していますので、こんな駄文で抗議したいわけではありませんが、人を悼む気持ちからどんどん遠ざかっているように感じるのは私だけでしょうか。