和をもって尊しとなす

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こんにちは。
院長の阿部哲夫です。

季節もいよいよ秋めいてきました。紅葉や秋の味覚など、秋を感じさせる言葉がよく聞かれるようになりました。谷中銀座の八百屋さんにも、松茸や梨、柿などの秋の味覚が並んでいて季節を感じます。先月号にも書きましたが、この時期の散歩は最高です。晴れた日に、予定があって恒例の昼休みの散歩できないと本当に落胆してしまいます。

柿といえば、よく柿が赤くなると医者が青ざめるなどといいます。これは、秋の気候のいい時期には、体調も良くなり医者にかかる機会が減ることのたとえですが、心療内科や精神科には当てはまらないようです。むしろ、この時期にはなぜか具合の悪くなる方が多いようです。この時期は春先と並んで、精神的不調を訴える方が多いようです。気候の変わり目は、やはり精神にとっては負担となるようです。気温が下がり、緑の葉が紅葉するだけで哀愁を感じてしまうのも、一因かもしれません。明確な原因はさだかではありませんが、この時期は要注意だと思います。

最近は、ニュースを見てもあまり明るい話題はなかったのですが、山中先生のノーベル賞は久々の明るい話題でしたね。しかし、それ以外の話題は中国や韓国との国際関係がぎくしゃくしていることや、児童虐待が殺人にまで至ったケースやいじめによる自殺など、暗いニュースばかりです。しかし、なぜ人と人はこうしてまで争いをやめないのでしょうか?個人の虐待やいじめに始まり、国同士でも争ってしまうことを考えると、人間とはそもそもが好戦的な存在なのかもしれません。いじめにしても児童虐待にしても、自分の攻撃性を制御、コントロールできずに、他人に向けてしまうといった構造は同じです。いじめは大人の中でも存在し、パワハラやセクハラがその構造は同じものです。いくら、仕事ができないからと、相手を攻撃したり、無視をしたりすることでは、その問題は解決しません。むしろ、職場の雰囲気が悪くなり生産性が落ちるのが関の山です。しかし、それでも人間は他人を攻撃することをやめないのです。

しかし、その一方で震災以降の日本国内を見ると、いろいろな分野で皆が協力して復興に努力している姿などを見ると、決してそれだけでもないようです。戦前はともかく、現代のこうした日本人を見ていると本当に平和的で友好的な国民であると実感します。何かあると暴力をふるい暴徒化するのではなく、つねに平和的友好的な国民として、もっと国際社会にその美点を宣伝した方がいいのではと思うくらいです。

JALの再建などで最近脚光を浴びている稲盛和夫氏の著書に、地獄と天国の差について書かれた文章がありました。その本によると、地獄と天国では物の量は変わりはないのだそうです。ただそこに住んでいる人間の差があるだけだといいます。地獄では、皆我先に物を取り合ってしまい争うために、結局そのものは誰にもいきわたらずにひもじい思いをしている。しかし、天国では少ない物資を皆で分け合うために飢えをしのぐことができる。これを聞くと、今のアジア情勢は地獄としか言いようがないですね。限られた資源や土地を争うがために、結局それを有効に活用できないでいるのではないでしょうか。

その一方、今年のノーベル平和賞はEUに与えられたそうです。EUは過去の大戦を乗り越え、平和と民主主義を守り、この経済危機にも協力し合って立ち向かっているというのが授賞理由と聞きました。たしかに、ヨーロッパもかつては血で血を洗うような戦争を過去千年以上も繰り返してきていました。そうした過去を乗り越え、各国が協力し合って限られた資源や資金を分けあっているのは、ノーベル平和賞に値するのでしょう。アジア情勢にしても、個人間の争いにしても、こうした平和的協力を基本にした関係を築くことが解決のヒントなのではないでしょうか?過去のしがらみや個人的感情をこえて、ジョンレノンではないですが、愛と平和を唱えることが今必要なのでしょう。千年以上も前から「和をもって尊しとなす」を憲法の第一条においた聖徳太子の偉大さが、今になってようやく実感できます。

個人のレベルでも、国のレベルでも物理的な争いでは物事は解決せず両者ともに不利益を被ることは、過去の歴史がすでに証明しています。話し合いや協力といった平和的解決でなければ、真の解決は得られないと思います。パワハラやいじめからは、何も生み出さないし、戦争のように破壊が残るだけではないでしょうか?